目の前にコーヒーがあり湯気が出ている。
コメダの風景
私の瞳にはそれを視点してその背景がある。向こうに座るおじさん達。
私の背中の席に座るおばさん達の声。
この人々にバックボーンがそれぞれあるが聞いてないから分からない。
目の前にいるただの風景のために出て来たエキストラ達。
このコーヒーを作った過程も私が調べれば物語となるが私はただ朝のコーヒーを頂く。
ふとそんな考え方をしてしまう。いや、これは真理に近いとさえ思える。
虐待の末に亡くなった女児。
そんなニュースを観た。皆も知っている。その席の人も知ってる話しだ。
しかし、そんな女児はいない。そんな風景だということ。私には風景だ。悲しくないのか?許せない!とか感情が動くための風景。
そんな女児やそんな事実はないよ。私の世界に。
じゃあ現地に行けって⁉︎
行った所で女児が亡くなった場所という風景があるだけ。仮に女児の死体を対面したとしても亡くなった殻があるのをみてる風景。そのバックボーンなど存在しない。
私が認識した時に起こる風景だ。ただの風景。怒りも。悲しみも。喜びも。ただの風景。不幸も。幸福も。
すべて風景。この世の中の悲しい、楽しい、ニュースは私が認識した私が観ただけの絵の様なもの。
ニュースを観て他人が許せないねーと同意を求めるのは私も許せないと思っているから。
普通の感覚などないよ。私の感覚のみの世界。
最近気付いたんだが部屋の黒いはじの方からちょくちょく覗いてくる輩は私自身だったのだと。